第一回下田景観ワークショップ一日目

今週も下田に行く。これで七週間連続、下田で週末を過ごす事になる。今週は「下田市景観ワークショップ」と題して、京都大学大学院工学部研究科准教授の神吉紀世子さん、兵庫県立大学山崎義人さん、和歌山県文化財センター山本新平さん、静岡県建築士会滝英規さんをファシリテーター(ワークショップの講師のことだそうだが初めて聞いた)に、須崎町の加田本家(旧・やきとり一力)をモデルケースに二日間に亘って伊豆石民家の活用案を検討する。

二階にある会議室に入ると三十人ほどの人々が既に参集していた。ざっと見、半分以上は知った顔だった。私は市会議員の鈴木敬さん、下田市花協議会の志田保子さんの間の席に座らされた。両側とも旧知の仲である。 少し遅れて、ワークショップが開会した。主催者挨拶、講師紹介、ワークショップの概要説明を三十分ほど行って、すぐに須崎町の加田本家に向った。

途中で神吉さんと名刺交換をする。彼女のことは随分前から英さんから聞いていて「きっと、話が合う」と言われていた。「お名前は英から…」と切り出すと「私も同じです」と笑顔で名刺をいただいた。二週間前、櫛田蔵でお目にかかった滝さんとは加田本家に向いながら道のりにある古民家についてレクチャーをしながら一緒に歩いた。加田家の前で待っていたら、下田TMOのTさんが「違う、違う、一力の方」と迎えに来てくれた。この時点まで私を始めかなりの参加者が錯覚をしていたのだが、今回のモデルケースの「加田本家」は「旧・やきとり一力」のことで、下田市歴史的建造物に指定されている「加田家」は「加田分家」であることがこの後、所有者の加田博さんの説明で分った。

下田市歴史的建造物に指定されている「加田家」はカツオ船の船主をしていた加田由蔵(嘉永四(1851)年生)が三男の万蔵(明治二十七(1894)年生、元・下田町長)のために作った分家に当り、「旧・やきとり一力」は由蔵の父吉五郎(文政十一(1828)年生)が建てたもので質屋を営んでおり「本家」に当る。外見の立派さと一方が歴史的建造物に指定されているため「加田本家」と言われて「加田家」が頭に浮かぶのも無理は無い。

無事に、「加田本家」に移動して、ワークショップの最初のメニューである、清掃活動を始めた。入ってみてちょっと驚いた。中はかなり綺麗なのだが、なぜか入って右側の壁一面に木箱が整然と積まれている。五、六十個はある。ところがこの箱、「やきとり一力」が営業中は存在していなかった。そんなものがあったらその面のカウンターに座ることが出来ないし、その壁にはメニューが貼ってあったのだから。こいつを、バケツリレーの要領で隣の空地に出すのだが、時折「おい、こいつ骨董屋に売れるんじゃないの?」と言う蓋付の和菓子を入れておく箱(片面に香取屋、もう一方に清月堂と墨書されている)や箱膳などもあったが、リレーの中央にいるのでどうにもならなかった。(後で知ったが、Y親爺がしっかり確保していた)続いて、二階のガラクタを出すことになり、絵本作家のSさんと二人で二階に上がった。周囲を見回してびっくりした。外から見るとそれほど天井高があるようには見えないのだが、縦横に梁や桁が渡っていて、それらを避ける時は腰を屈める必要があるが、それ以外の場所では天井が窮屈に感じることはない。西側の海に面した方に六畳の畳部屋があり、それ以外は板の間で大きな魚篭や長持ち箱などがびっしりと詰まっている。一番太い梁は松材で直径四十㌢以上もあった。そこから古畳などを運び出した。家屋の中心部と思しき辺りの板の間に幅三十㌢、長さ二㍍、高さ二十㌢ほどの台の様な物がある。邪魔なところに邪魔なものがとその時はおもった。(後述)

二階を片づけたところで、家屋の測定をする神吉さん、滝さんや京大と日大のと入れ替わって階下に降りた。下の座敷も見事だった。二十畳ほどもあるだろうか、東西に長い座敷の両側に押入れがある。南側には二階に上がる階段があり、その下にも棚が作りつけてあり引き戸が両側にあって、南側の昔は竃があった通り庭に繋がっている。通り庭の突き当たりは母屋から突き出す形で小部屋があり、便所があったそうだ。通常の伊豆石民家では反対側にも小部屋がありそちらに台所があるのだが、ここは構造が異なっていた。東方の家屋で「L字」型に囲まれて坪庭があるが、地盤沈下のため現在は縁側、つまり屋内の床面と同じ高さになっていて、そこから排水が逆流するのは縁側の床板はボロボロになっていた。

南北の石積みを滝さんと一緒に見て回った。七十歳近いのではと思われるのだが、屋根が見たいと隣家との壁にひょいと上って行く。計測、写真撮影をする滝さんに今まで調べた伊豆石民家の形態を説明し、いくつかの仮定も話してみた。滝さんは、かなり興味をもたれたようで「これからは下田通いが始まりそうだ」と言ってくださる。ありがたいことだ。

一階の天井を調べていた兵庫県立大学の山崎さんが「空洞がある」と叫んだ。二階の床板はそのまま一階の天井に当るのだが、その一部に空洞があると言うのだ。さては隠し金庫でもあるかと一同はざわめきたった。ふと思い当たって二階に上がってみた。床板を叩いて「この辺りですか?」と何度か場所を移ったら、先ほどの「台の様な物」の辺りで「そこそこ」と下から声が聞こえた。その台を揺さぶるとどうも蓋のように外れそうなので絵本作家のSさんに手伝ってもらって持ち上げると一階の畳が見えた。そこに、所有者の加田さんの奥さんが現れて「それは神棚の印」だと言う。一階の梁に(今は無いが)神棚が置いてあり、その上を歩いては罰が当るので、間違っても踏まないように神棚の上に台のような覆いを置いて神棚を避けて歩けるようにしてあるのだそうだ。「最初は分らなかったけれど、分家の方がそうなっているので分ったの」と言うことで一件落着した。

大方の作業は住んだのだが、梁や桁の構造が想像以上に複雑で計測に時間が掛かるので、計測をする学生等を残して市民会館の会議室に戻った。

ここで神吉さん、山本さん、山崎さん、滝さんが今日の検分で分ったことなどを発表し、フリーディスカッションに移った。これまで下田で多くのシンポジウムや講演会、座談会などに出席したが、これほど白熱したフリーディスカッションは初めてだった。まぁ、自戒の念をこめて悪く言えば知識や情報のひけらかしと言われてもしかたがない面もあったが、伊豆石民家についてこんなに熱く語る人々が何人も居ることに感動した。夕食を挟んで、各人がメモにまとめた提案や疑問をホワイトボードにジャンル別に貼って、それを読み上げながら伊豆石民家の活用案を出し合うと言う形でさらに議論を重ねた。ここでも意見は次々と出て、予定の時間を超えたので、とりあえず初日は閉会することになった。その後、私はほとんど顔を出せなかった櫛田蔵で終日来週開催の「一発入魂展」などで使用するパネル製作を続けていたNPOのメンバーや日大の学生達と合同で「ハリスの館」で二次会と言うことになった。二次会には、下田市議会の前議長で市議の森さん(本業は弁当屋さん)が焼酎、イカの生干し、サンマの姿寿司を差し入れに持って参加してくださった。ハリスの館の一階は年長者、二階は学生を中心にした若手に別れての大宴会となった。十一時過ぎに散会して、土佐屋に流れて軽く飲んだ後、私とNPOのO君達四人で櫛田蔵に帰った。学生達は一人も帰っていない。どうしたのかと聞いたら「山に登るそうです」とのこと、多分夜の下田公園に行くのだろう。一日の作業でくたびれ、美味い酒もたっぷり飲んだのですぐに眠りに就いた。夜中に小用に起きたら櫛田蔵の二階は女性二人を含んだ十数人が雑魚寝をしていた。 

画像は、「加田本家」前で家歴について説明する所有者、加田博さん、手斧で表面を削った跡がある松材の梁、一階の様子


(よしだ)