澤村家見学

今年、所有者から下田市に土地家屋が寄付されたペリーロードの東端に位置する澤村家を見学させていただいた。

この屋敷は大正四年に建築された大きな家で「コ」の字型の母屋の裏に蔵がある。昨日のワークショップの参加者を中心とする人々が多数集っている。みなが母屋を先に見るようなので私は蔵を先に見ることにした。大きな屋敷の塀の外からしか見ていなかったので、近寄ってみるのは初めてだ。やはり、近づくと威容を感じる。一階部分は伊豆石、二階はなまこ壁の下田の蔵の特徴を持っている。中はほぼ伽藍堂で、二階に上ると床板は何時でも取り外されるようになっている。内側は漆喰かモルタルで塗り潰されていて所々塗装が剥げて伊豆石が見えている。見えている伊豆石の表面は塗料に持って行かれた分が荒れていた。今後手を入れるときにこの状態をどうするのかは悩ましいところだ。

母屋を見ていた人々が蔵に移って来たので、今度は私が母屋に移った。民家と言うよりは迎賓館のようなつくりで、多い部屋数の大部分にソファが置かれたり、座卓が置かれている。寝室と言い切れるような部屋は一つだけだった。この屋敷は、後に「下田船渠」となる「澤村造船」の創立者の屋敷だそうで、来客を迎えることが多かったのでこのような設えになっているのだろう。

母屋のつくりは伊豆石は基礎にしか用いられておらず、ほぼ木造で、和洋折衷とも少し異なり、外観は下田の古民家、内部は洋風な生活に傾いている。玄関はドアになっているが、よく見るとドアの脇に蔵に良くある漆喰の引き戸が残っている。引き戸が閉る部分にきっちりと扉がはめ込まれている。と言うことは母屋の正面は改装される前は土壁だったのだろうか?そうでないと引き戸だけが漆喰と言うのは説明がつかない。玄関を入ると向って右側が台所と食堂、その奥にも居室が一つあう。右側は手前から洋風に改装された応接室が二つ、その奥に四畳半と八畳の和室が続いてい手、八畳の部屋の裏側に六畳の和室がある。

玄関の正面に傾斜の緩い十分な幅を持った欅を使った階段があり、中間の踊り場から左右に振り分けられていて、向って右が主人の書斎、左側にはパリーロードを見下ろす応接室がある。いずれも本格的な和室には当らない。一部の参加者から、建築に当ったのは大工ではなく、船大工ではないかと言う指摘があった。

市側からは「澤村家」の活用法を検討中だが、用途について何か意見は無いかと言う、問いかけがあった。私は何に使うにせよ、単一の用途ではなく複数の用途を持たせないと、入居した者が退出すると空き家になるので、一つが抜けても他の入居者で屋敷が空き家にならないような仕組にして欲しいと言うことと、二階の応接室はそれ専用にして市民が利用できなくては困るが、市長が賓客を迎える応接室にすれば見下ろす景観で来訪者に「下田は美しい町だ」と印象付けることができると提案した。

「澤村家」の見学を正午前に終えて、蔵に戻った。見学者は本当に少ないが閉めていたら誰も入れない。来訪者がいるいないではなく開けることに意義があるとは思いつつ蔵の時間はゆったりと流れる。来訪者は観光客が一組三人、切り絵作家のK嬢、南豆製氷応援団副代表のYさん、お馴染みのH女史くらいだった。入り口の駐車スペースの小屋根に付けたバナーの紐が切れたので補強するためビニール紐を買いに澤村紙店に行くと、再び「太鼓祭り」の話で盛り上がり、三十分ほど話し込んだ。蔵に戻ってバナーを直し、施錠を済ませ明後日まで下田に滞在するYさんが投宿予定の「大伊豆旅館」に蔵の鍵を預けて、帰京しようとしたら、黒船社の前でMさんにばったり出会い、そのまま話し込んだ。立ち話からお宅の上り框に場所を変えて一時間以上あれこれ話した。

(よしだ)